雛人形に恐怖し続けている

今週のお題「ひな祭り」

 

ひな祭りが近づいても、幼い女児であった私は全くはしゃいでいなかった。なぜかというと普通に雛人形が怖かったからだ。だから物心ついた瞬間から買わないでくれと親に頼んでいたし、実際に我が家に雛人形が飾られることはなかった。幼稚園や小学校に飾られる雛人形も勿論恐怖の対象だったので、みんながおひなさまかわいい〜! と言っている時に1人だけ怯えていた。

 

ここまでは幼い頃の恐怖の話だったが、ここからは現在から未来にかけての恐怖の話である。

親は「雛人形をしまい遅れると嫁に行き遅れるって言うもんね」と言っていた。小さい頃は「行き遅れる」というワードも怖すぎたので最初から家にない方がいいじゃん! と安心していた。

しかし、現在23歳。行き遅れる・遅れないとかの問題ではなく普通にどこにも行けていない。周りが彼氏と同棲とか合コンに行くとか言っている中、インターネットの海で1人浮かんでいるのである。電脳空間から現実世界に行くことすらままならない状態だ。

もしや、「雛人形をしまい遅れると嫁に行き遅れる」ということは、「雛人形を出さなければ嫁に行き遅れることはない」という楽観的に捉えて良い事象だったのではなく、「雛人形を出さないような家の女は将来的にどこにもいけない」というあまりに悲痛な現実に警鐘を鳴らしてくれていたのではないだろうか。私は先人達の「雛人形を素直に可愛がれるようなある程度のテンプレートに収まった女になれ」というありがたいメッセージを「恐怖」というあまりに動物的な感覚で遮断していたことになる。

かつての雛人形に対する恐怖よりも、将来の自分に対する恐怖の方がよっぽど強い。あの時怖がらずに雛人形を受け入れていれば、私の内部に秘められたお雛様的エモーションも胎動できていたのではないだろうか。

 

だが、過去を悔やんでも過去は覆らない。重要なのはこれからどうするかである。

今から雛人形を買ってもただの居た堪れない独身女としてツイッターでややバズ(若干情報が拡散されること)するのが限界だろう。それにもう雛人形を出し遅れた事実には変わりがない。

となると、飾っていなかった時期の分まで煌びやかに生きようとするのが良いのかとも考えたが、もう二十歳を超えているのだから限度をわきまえないとこちらも居た堪れない独身女としてインターネットで粗雑に消費されてしまうだろう。

理解して頂けたと思うが、どの道居た堪れないのである。

だから、おそらくこの雛人形への恐怖に屈することなく強く生きるしかないのだ。先人達のありがたいメッセージを破棄してしまった以上、茨の道を歩くのは致し方ないことなのだろう。

 

とりあえず、今は部屋の片付けをしようと思う。イマジナリーお雛様が「部屋が汚いから雛人形も男も置けないだろ」と言っている。